(2025.4.16)
社長は自分の師匠である野村正夫先生が長年手掛けた奈良県吉野の山をいつかこの目で見てみたいと日ごろから思っており、ついに今年その機会をいただくことができました。吉野には250年生のスギの人工林の山があり、古くは室町時代からその林業が引き継がれています。

ではなぜ奈良県吉野は有名な林業地帯になったのでしょうか。今から500年前、南北朝時代に後醍醐天皇が吉野へ逃れ、南北朝統一後も遺臣たちは「三種の神器」を守り、南帝の御霊とともに吉野に留まりました。しかし吉野は稲作に適さないため、山で生業を立てるようになり、これが吉野林業の始まりとされています。 有名な林業地帯の多くは中央構造線と呼ばれる断層沿いにあります。中央構造線とは日本の九州東部から関東へ横断している断層で、日本の主な林業地帯の多くが実はその断層に沿って点在しているのです。断層付近は破砕帯となっており杉にとっては水・養分・根張りに恵まれ、大径で良質な材が育ちやすい環境になります。しかし森にとっては適地なのですが斜面の破砕帯は地盤が不安定で崩れやすく、それを維持管理しようとする人間にとってはとても作業しにくい地形となっています。断層付近なので急傾斜で隆起しているところもあり、作業がしにくく作業道も大変作りにくいのです。
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そんな場所で発展した吉野林業はどのような林業なのでしょうか。吉野には山守(やまもり)という制度があります。村の有力者や豪商が山主として山の権利を所有していますが、管理までできないため山守さんは山主さんに代わって山の維持管理をすることで生計を立てるようになっていきます。この制度があることで、森を乱伐すると山主さんは管理費を頻繁に払わなければならず、また木が減ると山守さんは収入源を無くしてしまうので長伐期で山を育てることになります。山と山主と山守、みんながそれぞれのために共存し成り立っていくのです。そして木材バブルだった当時は高額のヘリコプター集材や架線集材が主流でしたが、安価な外国産の木材が入ってきて少しずつ国産の木材の価格が下落し、そのような集材方法ではコストがかかりすぎるようになってきたため、自分たちで山に道を作り、直接木を地上から2tトラックで搬出するという方法に切り替わっていきました。
一般的に苗木は1ha辺りに2000~3000本ほどですが、吉野の木は1ha辺りに1万本ほど密植します。この集約により吉野特有のまっすぐな美しい木が育ちます。もちろんこの木がすべて大きくなるわけではなく、数年ごとに間伐を続け丁寧に枝打ちをし、最後に残ったものが100年杉、200年杉となります。 この管理をするためにもそこに作る道がとても重要になるのです。

この重要な道づくりを手掛けられる人が社長の師匠の野村先生です。100年森を管理するための作業道は100年崩れない丈夫な道でなければなりません。自分たちがその技術やノウハウを習得できるまで先生は何回も静岡まで来てくださり、一緒に踏査をしていていただきました。森を実際に歩いてそこの植生を見て水脈の箇所を予測し、地質や傾斜などを見てその森の状態を知り、どのような線形を描いて道を作れば丈夫で壊れない作業道になるのか、その豊富な経験と感覚によってすごいスピードで進めていきます。以前、林道などを設計していた元県職員の方が一緒に野村先生の踏査を見学に来た時、持っていたGPSで確認してみたところなんとすべて同じ勾配で道を線形しており、とても驚かれていました。今ではそれこそGPSなどで確認できますが、それを自分の感覚でやってしまう野村先生の姿に本当に毎回驚かされてしまいます。

そんな野村先生が働いていた実際の山を見ると息をのむほどに圧巻の光景でした。1本1本の木の大きさと伸び、そして木と木の間隔は広くなっているのに対し上空の枝の間隔は空き過ぎず暗くもなくちょうどよくなっていて、非常に美しい森でした。ここまで木をコントロールして良質な木に育ててきた技術は世界でもないのではないでしょうか。 また道づくりに大切な尾根ですが、野村先生は地形的に難しい箇所には自分で尾根も作り、ヘアピンカーブを何個も作り上げて頂上まで作業道を開設されていました。そして作業中に出てきた石で石垣を組んだり、ふとん篭と呼ばれる鉄線で編んだ篭の中に砕石を詰め込んだもので斜面を強化したり、地盤が弱いところには木組もされていました。
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先生の考え方として山で出たものはすべて山に組み込みます。いずれその木組は朽ちてしまいますが、それまでに地盤が安定し、緑化されるまでの補助の役割をしてくれるのです。時間もお金も非常にかかる道作りですが、そのおかげで100年先まで森を管理し続けることができる道が作られるのです。 社長が独立して自分で仕事をし始めた時、まだ森づくりの方法を模索中でした。そんなとき出会ったのが天竜にある野村先生の弟子が手掛ける山でした。作業道が山になじんでいてそこに道があるなんて分からないくらいで、実際に通るととても固く安心感があります。それまでは雨の日に車で作業道を登って行くなんてありえないことでしたが、この安定した道を見て大きなカルチャーショックを受けました。そして「自分も山にこんな道づくりをしたい!壊れない道作りを覚えたい!」と強く思い、今まで悩んでいたことの答えをもらえたような気がしました。最初に「やりたい!」と野村先生に伝えてもらった頃「やめておきなさい」と言われてしまいましたが、今年ついに吉野の山を見せてもらえるまでとなりました。

たしかに安価で楽に道づくりができる方法を知っておいて、あえて手間が掛かる過酷な道づくりをすることは容易なことではありません。もちろん先生もそれを思って当初はやめておきなさいと言ってくれたのだと思います。ただ100年先を見据えた森づくりを目指している社長はどんなに過酷でもこれだ!と突き動かされた何かがあったのです。人生はいろんなタイミングと出会いなのでしょう・・・それも野村先生の師匠が大橋慶三郎先生(林野庁の作業道指針の元にもなった大橋式作業道のお方)であったように。
※大橋式作業道は、自然との調和を重視した森林施業のための作業道であり、強度と耐久性に優れた設計が特徴。
この吉野訪問の際、木の神様が祀られている伊太祁曽神社にもお参りさせていただきました。ここは全国から木材関係者の方がお参りに来られる神社です。

山の今と未来と共存するための吉野の地だからこそ、この地の林業が発展したのではないでしょうか。人が育て管理してきた250年生の人工林は世界でも聞いた事がありません。地域や暮らす人々、林業マンの誇り、みんなの想いがなければ250年生のスギ林を今に残すことはできないと思います。先人が大切に育て守ってきた山は一度でも管理を放棄すれば朽ちてしまいます。そのため後世まで責任を持って維持管理し、山と人とがお互いにメリットを持って共生していかなければなりません。社長が信じる野村先生の伝える道づくり、森づくりは、それを今後実現してくれることでしょう。
記:ハヤシ